明治20年(1887)頃の幸来橋界隈
[片岡写真館提供]
栃木県栃木市は県の南部にある人口約16万人の市です。
古くは江戸時代、日光東照宮への勅使が通った例幣使街道の宿場町として、また市街地中央を流れる利根川水系の巴波(うずま)川の舟運によって発展をしてきました。
その当時の巴波川は水量が豊富で流れが速く、下りはよいが上りには大変な苦労があったそう。
そこをうなぎたちは海から利根川、渡良瀬川、思川、巴波(うずま)川、永野川を昇り、太平山の沢水までも昇っていったのです。
小林晨悟『下野の昔噺』(橡の實社)
しかしながら「栃木とうなぎ」の歴史を紐解くと、意外なことに、栃木の人はうなぎを食べてはいけなかったそうなのです。
「昔、鰻を恐れた栃木人は、今や蒲焼の通であり、鰻は栃木市の名物の一つである。」と文献でも書かれているように、いまでは「美味しいうなぎが食べられる街」としていくつものうなぎ屋が点在しています。
太平山神社
栃木県栃木市に鎮座する「太平山(おおひらさん)神社」。
古来より信仰されている太平山という山をご神体としている神社です。
太平山神社では、うなぎが神さまを乗せて大平山に連れてきてくれたという伝承が残っています。そのため、うなぎは神様をお乗せする神聖な生き物として、太平山神社では食べることを禁じられているほどです。現在でも太平山周辺ではうなぎを食べないという家々が残っています。
NHK 昭和二十七年七月廿九日 放送による
今時そんな旧弊人はないであろうが、昔は、栃木町の人々は絶対に鰻を食わず、明治の中頃までその風習が残つていた。「栃木の人でも鰻をさしつかえありませんか」と聞かれてから馳走になる程、他の土地へも知れ渡つていたのである。
(中略)
栃木では、お布令で鰻を捕ることを禁じたので、其の頃はどの川にも鰻がうようよといたといい、現在の栃木市の大通りに、今は舗装されて蓋をされてあるが、兩側を流れて車道人道を分つている堀は、昔は、大通りの中央を一本で流れていた清冽な水で、其頃兩側に連る家々は半商半農で、道に麥を干したり、川の水で洗い物をしていた。その流へ釜を漬けて置いて後に洗いに行くと、その中へ忽ち鰻が入つて焦げ附いた飯をなめている。洗いに来た人は「どうぞ出て下さい」といつて、釜を傾けたという。
栃木の人は鰻に親切であるから、鰻はますます殖えて人を怖れない。それで、近村から衣に乗じて密漁者が来るので、盗賊や火災に備えて町を自衛する自身番の小屋で番太が見張つて居り、捕えて鰻に向つて詫びさせて鰻を川へ返し、その男を繩で縛り、町の中央の中町、今の倭町の四つ辻なる高札場に立たせ、「此の者鰻を捕らえたるにより三日間さらすものなり」と一般への見せしめに生き面をさらしものにしたという。
小林晨悟『下野の昔噺』(橡の實社)より抜粋
太平山神社では、うなぎが神さまを乗せて大平山に連れてきてくれたという伝承が残っています。
古くより太平山の頂上から栃木市を見守る、約1,000段に及ぶ長い表参道の石段を登ったところにある神社です。
太平山神社へとつづく「あじさい坂」の入口にある、六角堂。
六角堂の向拝の鐘の上には、大変珍しいうなぎの彫刻があります。
蔵の街として知られる栃木市内を流れる川。黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせています。
幸来橋より。白壁の土蔵と、黒壁がノスタルジック。
蔵の街遊覧船で、船頭が巴波(うずま)川のほとりを案内してくれます。
蔵の街美術館。市内には土蔵を活かした観光施設が点在しています。
栃木県には174の星宮神社があり、その配置が天の川のようだと言われています。
東武日光線「新栃木駅」の近く、県道117号(駅前通り)の少し北にあります。
「なでうなぎ」。うなぎと自分の干支をなでると良いそうです。
御朱印の真ん中に「うなぎ」がいます。
栃木市は「三毳山(みかもやま)」「岩船山」「太平山(おおひらさん)」「渡良瀬遊水地」など県南のシンボル的な自然景観と「渡良瀬川」「思川」「巴波川(うずまがわ)」「永野川」などの豊かな河川を有しています。
古くは律令時代に下野国庁が置かれ、江戸時代には、日光例幣使街道の宿場町として栄え、市内を流れる巴波川の舟運を活用した商人町として発展を遂げました。喜多川歌麿ゆかりの地でもあり、現在も蔵作りの建物を中心とする歴史的な街並みが残っており、多くの観光客の関心を集めています。
また、米、イチゴ、ぶどうをはじめとする多彩な農産物を生産する県内有数の農業地帯でもあり、今日では、食の地域ブランドとしても認知され、賑わいを呼んでいます。